2010年9月23日木曜日

自己紹介

今までもプロフィールという形で自己紹介をしていたのですが、私をより深く知ってもらうためと、自分を振り返ってみるために、今までの自分の事を色々と書いてみようと思います。

と~~っても長いので時間がある人だけ読んでください。


自己紹介

治療家 竹田義浩
1972年生まれ O型

大阪府堺市白鷺町出身

中百舌鳥中学校、泉北高校、大阪商業大学卒業後、
OA機器の営業を3年間経験。

1997年 自然形体療法に出会う。
1998年 開業資金を作るために退職して1年間の出稼ぎに出る。
1999年 新潟の山田洋先生の元で自然形体療法を学ぶ。
     JR鳳駅前で「鳳自然形体院」を開業。
2004年 治療院が手狭になったので三国ヶ丘駅前に移転。
2006年 治療技術セミナー「手技ネット」を立ち上げる。
2007年 自然形体療法関西地方研修会の講師。
2008年 自宅兼治療院として現在の地に移転。
2009年 「鳳自然形体院」から「堺自然整体院」に院名を変更。


・趣味 
スキー、釣り、キャンプだったのですが、
2009年に長女が生まれたので現在は育児が趣味です。

・好きな言葉
己に克て
Simple is best
臨機応変

・忘れたくないこと
感謝、謙虚

・学生時代
堺市の白鷺団地で生まれ育ちました。第二次ベビーブームの世代なので団地の同じ棟に同世代が20人以上いて、家の下から声をかければあっという間に人が集まる環境で、小さい頃は遊び友達に事欠きませんでした。

悪ガキでも真面目でも無く、どんな子とでも友達になれ、いつもチョロチョロして何かやらかすけど、要領の良い子だったようです。(友人談)

・小学生
1年の時はクラスで1番の通知表でしたが、
2年生以降は勉強を全くしない子だったので、以後ひたすら成績は右肩下がり・・・
小4から授業中寝ることに目覚め、
中3でも入試前の1ヶ月しか勉強をせず、
高校ではクラスの最下位争いをして、
大学では成績は優0良2で残りは全て可でした。
ちなみに1,2回生では履修中半数が不可でした・・・(笑)

あれほど勉強をしなかったのに、今の仕事を始めてからは専門書を読んだりセミナーに参加して勉強をすることは楽しいんですよね~不思議なものです。

最近は昔と違って勉強をしても理解力や記憶力の低下を痛感します。やはり歳でしょうか?(笑)

・中学生
サッカーに熱中して、クラブから帰ってからも夜遅くまでボールを蹴ってました。

・高校生
サッカーよりもバイクに熱中して、単車を買うためにバイトに明け暮れました。RZ250に乗って四国や九州を回ったのは今でもとても良い思い出です。
高校生にはローンや保険代が高かったので昼飯はいつもパン1個だったな~

・大学生
スキーにはまりました。バイト終わってから毎週のようにハチ北に通ったり、八方尾根の民宿で居候をしたこともあります。
独身の時は一人ででも奥美濃や北陸まで行ってましたが、家族ができると中々行けませんね~

来年くらいからは子供を連れてキャンプに行こうと計画中です。



・社会人

バブル崩壊後の就職だったので就職活動は大変でした。

あちこちで採用を断れまくる中で、なぜか第一希望の会社に50倍以上の倍率を切り抜けて入社する事ができました。今考えてもなぜ入社できたのか分かりません、奇跡的です。

採用時は情報通信の会社かと思って入社しましたが、
入社したらOA機器の営業でビックリ
(同期の誰もが実際の仕事内容を知りませんでした!)
新入社員研修が自衛隊でまたビックリ(笑)

OA機器販売会社としてはそこそこ大手の会社だったのですが、
会社の中身は今で言うところのブラック会社で、
少しくらい騙しても契約を取ってきた者が褒められるような利益のみを追いかける仕事に疑問を感じていました。


・入社5年で離職率8割
・遅刻したらデスクの上で正座
・体調悪くても欠勤の許可が出ない、3年間で有給消化0日
・3年間の間にトップ10に入る営業が脳卒中で2人亡くなる
・営業中にビルの非常階段から飛び降りたら楽になれる、という考えを営業の誰もが経験する

↑あまりまともな会社ではないですよね?^^;)

新卒で入ったので当初はあまり疑問を持たずにやってましたが、離れてみると大変な会社だったんだな~っと良く分かります。


ただ、その厳しさのおかげでかなり鍛えられましたし、町工場や商店から大手企業まで営業地域の全ての会社に営業に入ることができたので、とても貴重な経験ができました。

中でもたくさんの中小企業の社長さんとの会話は勉強になりました。一代で会社を興した人はやはり魅力的な人が多いです。


ありきたりですが、営業が売る物は商品ではなく人なんですよね。



・治療家へのきっかけ

私がこの療法に出会ったのは24歳の頃、知人が交通事故で車にはねられ、5分と歩けない酷い状態なってしまいました。
どこに行っても治らなかった症状が、自然形体療法の治療院にかかるようになってからどんどん回復していくのを目の当たりにしてからです。

当時、民間療法を全く知らなかった私は、聞いたことも無い治療法なんて全く信用してませんでしたし、
健康保険を使う治療しか受けたことが無かったので、実費治療の施術料金を聞いてとても驚きました。
しかし、実際に施術を受けてみて自分の身体が楽になる事を実感した事と、知人の回復を見ていて、
現代医療では全く治らないものが民間療法で治ることもあるのだと知りました。

学生時代はサービス業のバイトを色々とやっていて、人に喜んでもらえる事に仕事の喜びを感じるようになっていました。
入社3年目くらいから当時の仕事内容に疑問を持ち、人に喜んでもらえる福祉関係等への転職を考えていました。
丁度その時期に知人からこの仕事への勧めがあり、治療家なら自分の理想の仕事ができると一念発起して転職を決断しました。
困っている人を助ける事ができて、喜んでもらえて、自分の腕一本で生きて行けて、誰にも気兼ねなく自由にできる仕事ってそうそう無いですもんね!
退職した翌日は生まれて初めての凄~~い開放感だったのを今でも覚えています。

退職当時は研修費の貯蓄すら無かったので、1年間滋賀県の田舎の液晶ガラス工場へ出稼ぎに行き、住込みで働いて1年で250万円くらいの開業資金を作りました。
会社員時代は20万の貯金もできなかったのに、人間やる気になれば変われるものですね~。
元々営業で話すことが仕事だったのに、工場ではライン作業で全く会話が無い仕事で、1年間経つ頃には性格が変わった気がしました。環境って人を変えます、怖いです^^;


・研修

1年後に新潟の山田洋先生の元へ研修へ行きました。
朝から夜まで治療所に詰めて、師匠の技術を毎日見ながら練習に励みました。
当時の師匠は一人10分くらいで痛みを取って、毎日50人も施術する治療家で、初めは魔法を見ているかのようでした。

私は元々この仕事の素質があった方ではありませんでした。
この仕事は指の柔らかさがとても大事なのですが、指を鉤のように使う仕事を4年間したせいで気づかないうちにガチガチの指になっていたようです。
師匠によく言われたのは「こんなに手の硬い人は見たことない」と…
「手が柔らかくなったね」と言われたのは3年くらい経ってからでした。
(師匠から褒められることは少ないのでこの時は嬉しかったですね~)

無理に練習をやり過ぎて手を傷めてしまい、1か月以上全く練習ができずに師匠の治療をずっと見ているだけの時期もありました。
この時期はほんとに辛かったです。限られた研修期間なのに練習をする事ができず、どんどん日数が減っていくのは焦りましたし堪えました。
ただ、そのおかげで師匠の一挙手一投足を集中して観察することができ、診断や施術の組み立て方は当時は誰にも負けないくらい勉強する事ができました。

ちなみにこの当時、毎週金曜日に勉強に来ていたのが今の妻で当時は色々と教えてもらいました。
(第一印象はマイナスイメージでしたし、まさかこんな関係になるとは夢にも思いませんでした^^;)

通常は一通りの研修を受けたら師匠の患者さんを診させてもらって実践での経験を積んでいくのですが、
手を傷めてしまったためほとんど患者さんを診ずに研修期間が終わってしまいました。
本当に大阪で開業してやっていけるのか?と~っても不安なまま帰阪することになったのでした。


・1年目 開業

JR阪和線 鳳駅前の8畳くらいの2階の小さな店舗で鳳自然形体院として開業しました。

人に貸したお金が予定通り返してもらえないせいで開業資金が底を尽きかけてたので、看板以外の事は全部自分でやりました。
壁や天井にペンキを塗ったり、床や階段を張り替えたり、ベッドを作ったり、1ヶ月間ほとんど内装飾人してました。
いかに安くいかに綺麗に仕上げるか、DIYの楽しさを存分に味わえ、これ以来ホームセンターが大好きになりました。
今でも工具とか見るとつい欲しくなります(笑)

研修中に経験を積めなかったために、いざ開業してみると初めての症状の患者さんばかり来るわけで、毎日が緊張と必死の努力の連続でした。

この療法は下手でも治ると師匠がよく言ってましたが、未熟な当時の私の技術でも不思議な事に結果が出るんですよね~
施術後に痛みを確認して患者さんから「凄く楽だ」と言われて私の方が驚くことも多々ありました。

全く経験が無い症状の患者さんが来て手も足も出ない時は度々師匠に電話をして対処法を教えてもらいました。
電話で症状を聞いただけの師匠の指示した施術でその場で痛みが取れた事が多々ありました。
何年かして経験を積めばなぜそう指示したのかが理解できましたが、当時は不思議でしょうがなかったですね。

患者さんから「痛くない」「楽になった」「ありがとう」こういう声をいただくのはとても嬉しく、今でも私の一番の元気の元です。
いくら疲れている時でも会心の結果が出た時には疲れなんて一発で吹き飛んでしまいます。

今から振り返るとよくあの程度の知識や経験でやっていけたな~っとも思います。
無知故の強さでしょうか。
当時の治しきれなかった患者さんには申し訳ない気持ちにもなります。今の技術でもう一度施術したい人がたくさんいてます。

開業当時は患者さんも少なく、掛け持ちでバイトをしたり、経済的には大変だった時期でした。
若いうちの苦労は買ってでもしろと言いますが、今から考えるととても良い経験ができました。
築40年、トイレ風呂共同、家賃2万円の津久野駅前の公団に住み、食費は月1万円で昼飯はいつも白飯と100円の缶詰。おかげで今でも100グラム100円以下の肉を探してしまいます(笑)
部屋はお湯なんて出ないので冬は洗い物と朝の洗髪が辛かった~!。仕事が遅くなると風呂に入れないので、いつも銭湯に行けるようにお風呂セットを持って通勤してましたね~

これがサラリーマンなら不満タラタラだったのでしょうが、自営業の場合は良い事も悪い事も全てが自分の責任なので、仕事に対する不満が全然ありません。

現状が悪い時は過去の自分の行動に問題があるし、今の自分の行動が未来を作ると考えてます。


・3年目 上向き 

治療院も軌道に乗るようになり、この頃からバイトを卒業しました。
これ以降は毎月欠かさず東京や新潟に行って技術を磨き続けました。

当初はとにかく質問したいことが山のようにあって、毎月20も30も質問を用意していって暇さえあれば師匠を質問攻めにしてました。
(ちょっと嫌がられてたかも(笑))

研修の翌日は師匠の治療院に一人で居残って患者さんを診させてもらいながら師匠と何が違うのかを学び続けました。
これも当時だからできたことでとても貴重な経験でした。
このような恵まれた環境で勉強できたことを感謝しています。

当時は毎月新手法が50個くらい研修会で発表されていたのですが、とてもそんなに覚えきれません・・・^^;)
後々に使っていたのはきっと50個のうちの1つくらいかもしれません。
ただ、様々な手法を練習することは体勢や力加減の応用力を高めるとても良い練習になりました。
当時は系統立てて教えてくれることはありませんでしたし、研修の費用はすぐにペイできるわけではありませんでしたが、長い目で見ればとても良い経験になったな~っと思います。

余談ですが、
4年目に今の妻と付き合い始めました。
彼女は新潟で開業していた同じ自然形体の治療家だったのですがメール攻撃で落とされました(笑)

第一印象はかなり悪かったのですが、話してみると意外と良い人で、友達→つきあう→一緒に暮す、と関係を深めるとその度に新しい良い部分が見える人でした。
8年目に結婚するまで毎月研修会で会っていたのですが、同僚の先生方の誰にも気づかれることなく隠し通しました♪

現在は治療家の仕事をしていませんが、元々は私よりも全然レベルの高い治療家だったのでちょっともったいないですね。
育児が一段落したらまた再開するかもしれません。


・5年目 移転
三国ケ丘駅前のマンションに移転しました。
本部から施術料の値上げを指示されたのがきっかけでした。

当時の鳳の店舗は未だにトイレがくみ取り式で、壁の裏をネズミがガサゴソと走るような所でしたし、急な階段を上らねばならず足の悪い人にはかなり酷でした。
店舗のあった場所が国の緊急再開発地域に指定され、将来は再開発で立退きを迫られるのが予想されました。
そこで鳳よりも便利で雰囲気の良い場所を探して三国ヶ丘駅前の3LDKのマンションを店舗兼住居として借りる事にしました。

初めての移転だったので患者さんが着いてきてくれるかとても心配でしたが、9割の患者さんがそのまま来てくれて驚きでした。とてもありがたかったです。

三国ヶ丘はJRと南海の快速が止まるとても便利な場所でした。堺市内でこれ以上の場所と言ったら中百舌鳥駅前くらいしかありません。
それなのに三国ヶ丘は今一つ発展しない駅でしたが、路地の奥には気の利いた居酒屋さんがたくさんあって美味しいものを食べさせてもらいました。
今でも清恵会病院の脇にある「食亭ひらひら」はこのあたりでの一番のお気に入りです。

自然形体の組織は3~5年に一度、会員数が半減する歴史を繰り返しています。
私が入会した時の先輩や同期で辞めなかったのは数名の女性の先生だけです。
事情は色々とあるので一概に何が悪いとは言えないのですが、もったいない話ですね。(´-ω-`)
総合的に見ればとても良い治療法だと思うのですが、これでは世間には広がりませんし、結果的に助かる患者さんも増えません。
これではいけないと考え翌年から行動に出ることにしました。


・7年目 セミナー

他の治療法のセミナーをいくつか見て、この治療法ならセミナーを開いても受講生に十分に満足してもらえると確信できるようになりました。

そこでこの療法をもっと多くの先生方に知ってもらおうと同僚の先生方8人で「手技ネット」というチームを立ち上げて、関東や九州で1日だけの単発セミナーから8ヶ月のフルコースセミナーまで色んなセミナー活動を2年間くらい行いました。

チームのメンバーが全国に散らばっていたので、ネットを使って打ち合わせや資料の作成を行ない、2年間毎日2,3時間をセミナーの準備に費やし続けました。
自分達なりにベストを尽くし、当時の自分達としてはかなり高いクオリティのセミナーができたと思います。
(今ならもっと多くのことを伝えられるのにと考えることもありますが)

どういうわけか、私はこのチームの取りまとめ役になったので、チームをまとめて前に進める事ばかり考えてました。
本当に色々あってストレスもありましが、それまでにない経験と勉強ができ、とても充実した時間を過ごせました。
このメンバーとの信頼は今でも大きな宝物です。

計100人以上のプロの治療家の先生方を相手に講師をした事は、初めは頭が真っ白で声が震えるほど緊張しましたが、やればできるもんで最後の方には話す事も少しは楽しめるようになりました。

その後当院でも個人的に接骨院の先生3名に教えました。
多人数の講師で多数の生徒に教える事と、少数の生徒に一人で教える事の両方の貴重な経験ができました。それぞれ一長一短ですね。

人に教える事で技術や理論について再確認できたことも多かったですし、他の講師の先生方が培った知識を知ることもできました。

知っている事、理解している事、実践できる事、人に教える事、一人前にする事、それぞれのステップの難しさを実感しました。

また他の療法の先生方と知り合う事で今まで以上に視野が広くなり、治療家としてのステップを一段上がれた気がします。

その中で気づいた自分に足りない点を勉強するため、家族との時間を優先するために現在はセミナーや関西地方研修会等の講師活動は行っておりません。(セミナーって収入は高いんですけどね^^;)


・9年目 再移転

中古ですが念願の一戸建てを購入して自宅兼治療院として百舌鳥に移転しました。
自営業なのでまず住宅ローンは通らないだろうと思ってたのですが、
結婚してマンションの引っ越しを考えていた時にダメ元で話を聞いてみたら営業マンの口車に乗って本気で住宅購入を考えるようになりました。
駅近、分かりやすい立地、駐車場3台、仕事で使える間取り、条件を挙げればどう考えても予算で買えるはずが無かったのですが、
なぜかものすごいラッキーがいくつも起きて今の家を買える事になってしまいました。この家に縁があったんでしょうか?
そんなこんなで70歳までの高金利の鬼ローンを組んで購入しちゃいました(笑)
和風の注文住宅を専門にしていた朝陽工務店さんが建てた家で、床や壁など自然素材にこだわって建てられています。
築20年以上の建物ですが、建物の検査会社に検査してもらったら新築の家よりも狂いが無いそうです。
これなら私が生きている間は持ってくれるかもしれません。しっかりと建ててくれた大工さんに感謝です。
私の器には勿体無い家ですが、いつかこの家に釣り合う人になりたいですね。

春から初夏にかけては、治療室の窓から、梅・木蓮・エゴノキ・ツツジ・牡丹・紫陽花が順番に咲き、新緑も美しく仕事をしていてもとても気持ちが良いです。
「ぜひこの季節にお越し下さい!」と言いたいところですが、患者さんはそんな事を言ってられませんよね?^^;

ベッドから見える菜園では農薬や化学肥料を使わずに野菜を作ってます。
まだまだ上手にいかないことも多いので、園芸が得意な人がおられたらぜひコツを教えてください!

初めて一戸建てに住んでみて驚いたのが、「冬は寒く夏は暑い!!」
2月に引っ越してきた当初は、寝てると頭が寒くて眠れませんでした(笑)


・10年目 子供

長女が生まれました。
元々子供は好きだったのですが、我が子が生まれて初めて親のありがたみや苦労、子供の尊さを知ることができました。
嫁さんもいい歳なので多分二人目は無いと思います。
この子に精一杯の愛情を注いで、10年間は一度きりの子育てを楽しませてもらおうと思ってます。
女の子なんでいずれ「お父さん臭い」と言って父親から離れていってしまいますもんね。(T.T)

子どもが生まれてから仕事は3割くらい減らして、育児と家事を頑張ってます。
おかげでお金はありませんが、お金では買えない日々を過ごさせてもらっています。

ただ、初めての子育てなので分からないことだらけですね~
悩み事がある時はいつも子育ての先輩である患者さんから経験談を聞かせていただいて解決しています。


開業から10年が経ったのを機に院名を「鳳自然形体院」から「堺自然整体院」に変更しました。
二度の移転により開業時の「鳳」の地では無くなった事と、誰からも分かりやすい名前にすることにしました。

そう言えば、開業当時は20代だったこともあり、「お兄さん若いね~!」「男前だね~!」とおばさん達からよく言われて可愛がられたものですが、ここ5年くらい全く言われなくなりました。歳ですね。。。(笑)


・11年目 勉強

今までは他の療法のセミナーもいくつかは行ってましたが
自然形体療法の研修会に毎月出続けて勉強をして、基本的には自然形体一本で施術をしてきました。

昨年くらいから自然形体の施術の方向性が自分の目指すものとは違ってきました。
子供が生まれてから一年くらい育児休暇のように研修会やセミナーへの参加を休んでいたのですが、
方向性の違いもあって、育児が一段落してからは勉強する範囲を広げて様々なセミナーで学ぶようにしました。

この道に導いていただいた師匠である山田先生には心から感謝しておりますが、
孔子曰く「師の跡を求めず、師の求めたるところを求めよ。」との言葉のように
師匠の後を盲目的に着いて行くだけでは見えない世界があるんだなと気づきました。

色んな治療法の話を聞いていると自分の足りなかった部分に気づかされることも多々ありますし、
今まで取り切れなかった痛みがサクっと取れてしますこともたくさんあります。

逆に他の技術を取り入れる事で迷いが出ることもあり、まだまだ試行錯誤している段階ですが、人の縁にも助けられ良い治療法や尊敬できる良い先生に出会うこともできました。

これからも自然形体の勉強も続けていきますが、固定観念に囚われずにベストな治療法を探求し続けていきます。

患者さんを日々の苦痛から、より的確に、より早く、より安全に救えるように、これからも技術・知識・人間性を高めれるように日々精進していきます。



大阪-堺自然整体院

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